せ き ど う さ ん こ え ず
石動山古絵図
 天正十年(1582)の荒山合戦で灰となった石動山には、中世(鎌倉〜室町時代)の資料はほとんど残されていません。最盛期には360余坊、3,000人の衆徒を擁したとつたえられている中世の山内は、一体どういう姿だったのでしょうか。
 ここに紹介する石動山古絵図は、当時の伽藍がらんの姿を具体的に伝える唯一の遺品で、天正の兵火の後、間もなく、石動山復興に歩調を合わせて描かれたものと推定されます。画面のほぼ中央に講堂を大きく描き、左上方の山頂大御前に鎮座する本社を中心に、五社権現ごしゃごんげんの堂舎、そして周囲に諸堂塔を配した構図は、まさに華麗な石動山の伽藍と信仰を彷彿させる光景です。この図を石動山参詣曼陀羅と呼ぶ研究者もいる程です。
 すなわち同図からは、石動山に参詣した庶衆が、このあでやかな図を目のあたりにし、信仰の世界に浸ったことが思い起こされ、新古の縁起とともに、近世石動山の再興事業の一環として制作されたモニュメント的作品と考えられます。
 また、堂塔の配置も山内の遺構とほぼ符号し、極めて写実性に富んだ内容から、石動山歴史資料として高い価値を有しています。

能登國 石動山を護る会