もくぞうじゅういちめんかんのんぞう
木造十一面観音像
  石動山は、鎌倉時代から五社権現ごしゃごんげんと呼ばれているように、山内には五つの神社(神仏)が祭られていました。そのうちの一つ白山社(客人社まろうどしゃとも呼ぶ)は、加賀の白山から勧請かんじょうしたもので、祭神は伊弉冉尊いざなみのみこと、本地仏ほんちぶつは十一面観音像でした。
 本地仏とは、古来の神仏習合しんぶつしゅうごう思想にもとづき神の本来の姿を表した仏のことを言い、石動山もこの思想の影響を強くうけた霊山でした
  この十一面観音像は、像高82p、総高(台座、光背を含む)146pあり、寄木造よせぎづくりという手法で制作されました。江戸時代の初め慶長十四年(1609)、加賀藩二代藩主前田利長とその夫人が施主となり、武運長久・国家安全・息災延命などを願って寄進したもので、開眼導師は法師空照でした。空照は、波着寺(金沢)の開祖として著名な高僧で、この時期、石動山大宮坊の別当職を勤めていました。

 十一面観音像は、衆生の除病・減罪・求福をかなえる仏として最もポピュラーなものですが、石動山のこの像も、江戸時代には能登三十三観音の九番札所として、現世利益を願う庶民の信仰を集めるのに大きな役割をはたしました。