石動山には「古縁起」「新縁起」とよばれる二つの縁起が残されています。縁起とは社寺などの由来を記した文書のことをいい、両縁起は石動山信仰の原典、一山の山宝とされてきました。
 古縁起は、江戸時代の初め元和九年(1623)、公家の西洞院時慶・時興父子が、山内に伝えられたものに若干の修正を加え清書したもので、制作年代は中世にさかのぼります。
 中世の古縁起は、京都市山科区の勧修寺に残されており、昭和五十七年の町史編さん調査で発見されました。それによると、同縁起は文明十一年(1479)に書写された写本を大宮坊の灯下で転写したとあり、現存する写本では最古のものです。
 勧修寺は、中世には石動山の本山として重きをなした真言宗の名刹です。
 古縁起は、石動山の開山を崇神六年方道仙人、中興の祖を養老元年(717)智徳上人としているのが大きな特徴です。また、石動山の本地仏虚空増菩薩が現れた年代を天平宝字元年(757)としています。
 方道仙人は、播磨国の法華山一乗寺の開山として有名な伝説的な人物です。
 新縁起は、古縁起におくれること三十年後の承応三年(1654)、江戸時代の儒学者として名高い林 道春(羅山)が、加賀藩の三代藩主前田利常の求めに応じて創作したもので、同年八月に石動山へ寄進されました。同縁起の大きな特徴は、石動山の開山を養老元年(717)泰澄大師とするところにあります。泰澄は、越前の国の生まれで超人的・伝説的な活躍をもって知られ、古縁起の方道仙人がこの地方では比較的なじみが薄いのに対し、泰澄は白山をはじめ加賀や能登の各霊山を開いた高僧として親しまれています。すなわち、石動山が修験の聖地として信仰を集めるようになってから、開山として位置づけられた人物とみられます。
 ところで新縁起がつくられた時期は、天正十年(1582)の荒山合戦で打撃をうけた石動山が、多根村百五十石の寄進、山内法度の制定、本社の完成など、加賀藩の保護によって復興をなしとげた再興期にあたります。
 新縁起は、こうした一連の動きの中で、石動山信仰の拠りどころとして整備されたものと考えられます。
せ き ど う さ ん こ え ん ぎ
石動山古縁起
せ き ど う さ ん しん え ん ぎ
石動山新縁起